ドリーム交通 大船ードリームランド線。

1966年に開業し、1967年には運行休止に追い込まれた幻のモノレール。
ネットではよく「失敗作」と揶揄されますが、
それによって俗説も多く出回って、その真の姿に迫ることは困難になりつつあります。

今回はその中の一つ、ドリーム交通の路線について整理していきたいと思います。

先行資料としては以下が挙げられると思います。

まずはモノレールの概要から最後まで詳細に説明したコンテンツです。



さらに、ドリモノの延伸計画について聞き込みを行ったコンテンツです。



いずれも物凄い調査力でドリモノについて

色々説があるのですが、この経路が検討された時代というのはモノレールの休止後であって、沿線の要望などを含む計画と言えます。

今回は、日本ドリーム観光がどのようにモノレール建設を計画していたのかを調べたいとおもっていました。
そのために、いくつか情報の整理をしなくてはなりません。
ドリームランドモノレールと一言に言っても、その経緯は複雑で、あらゆる資料を読む上で気をつけなければならない点があります。
たとえば、この路線の持ち主が何度か変わっていることに注意する必要があります。

最初に免許申請を行ったのが「日本ドリーム観光」
ドリームランドの運営会社です。
しかし鉄道経営に専念するための子会社を設立します。
それが「ドリーム交通」です。
さらに、昭和55年10月のメーカーとの和解を受け、モノレールの運行再開を目指し昭和56年に設立された会社が「ドリーム開発」です。
この3社のどの名前が出てくるかによって、路線が求める性格が変わってきます。
今回は「日本ドリーム観光」「ドリーム交通」の路線について説明してきます。

今回、その根拠となる資料があることを信じて、国立公文書館へ調査に向かいました。
ここには、ドリームランドモノレールに関する運輸省の免許資料が収蔵されていました。
今回はこれら公文書に記載された内容から、ドリモノの姿に迫っていこうと思ったのですが、
読めば読むほど謎の深まるものとなっていました。ここで少し頭を整理していきたいと思います。

まず、日本ドリーム観光が、昭和38年8月5日付で、「大船ードリームランド線」「六会ードリームランド線」を免許申請します。

大船線路線図small
大船ードリームランド間の計画路線図(日本ドリーム観光作成・国立公文書館蔵:撮影写真を合成)

昭和38年計画案では国鉄大船駅に隣接した柏尾川上空にモノレール駅を設置し、
底から東海道線に並行して、現行ルートよりも北側の谷戸を走行するというものでした。
この大船駅、図面が作成されています。
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モノレール大船駅(昭和38年日本ドリーム観光作成・国立公文書館蔵)
大船駅は現在のバスロータリーの手前、西口改札の目の前から発着する構造となっています。
柏尾川を暗渠としたうえで、レールの高さを地面と揃えているため、実現していれば非常に便利なバリアフリー交通となっていたのではないでしょうか。



また、地図中に小雀駅という駅の設置が明確に記載されています。
場所は神奈中バス「庚申塚」停留所の近辺と推測されます。
旧道には当時水田地帯の中で人家が並ぶ一帯で、宅地化を見越したものなのかもしれません。

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小雀駅についても、かなり詳細な図面が遺されています。
島式ホームで、駅中央部に出札口を、左右に改札口を持つ構造です。
千葉県浦安市にあるモノレールの駅構造に通じるものがあり、アメリカのモノレールに何か類似点があるのか気になります。
この小雀駅はのちの小雀信号場とは位置が異なるため、小雀信号場が駅として昇格することを想定した設計かは定かではありませんが、小雀の交換施設の設計に何らかの影響を与えている可能性はあると言えるのではないでしょうか。

また、モノレールが通る予定だった田谷近辺の土地は現在環状4号が通っています。
地形的にも交通を通すのに適していたのでしょう。



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六会ードリームランド間の計画路線図(国立公文書館蔵)

六会の路線は、ドリームランド坂下から深谷住宅の周りを緩やかにカーブし、
西に進路を変えて直進するコースを取ります。
境川から六会にかけては現在の道路も急勾配のため、ここでモノレールの実力が活かせることを見込まれたのでしょうか。

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六会駅についても図面が用意されていました。

こちらも小田急江ノ島線に並走して駅に入るようになっています。
線路は高架のため、旅客はオートロード(エスカレーター?)で登り、階段で降りる仕組みになっているようです。
また、六会線の途中には車両工場が設置される計画があったようです。
ここは現在は下屋敷という交差点から見て東に位置する農地となっています。

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2線の検修庫の図面が遺されていました。2階に事務室を備えていて、車両限界の関係からトラバーサによる転轍機が設置されています。

また特筆すべきこととして、当時は大船線・六会線ともに単線で、かつランド坂下のデルタ線によって、ドリームランド、大船、六会の各方面を自由に行き来できる構造が当時の図面から明らかになってきました。

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転轍機の図面と、配置の図面。
さらに、この転轍機の構造は、大船線で実際に使用された分岐構造とは異なっています。


この昭和38年免許申請では、開業にあたっての問題点とその見通しがいくつか記載されています。


まとめると以下のようになります。

(1) 大船駅西口への乗り入れと国鉄駅舎改修:国鉄と交渉中で明るい見通し。
(2) 柏尾川上空の利用:神奈川県藤沢土木事務所と交渉し、護岸工事の施工を条件に許可いただける見通し。
(3) 国道一号線に柱を建設すること:建設省との予備打ち合わせでは明るい見通し。神奈川県と横浜市からは全面協力を頂いている。
(4) 用地買収:殆ど異議なく、円滑化のため期成同盟設立の動きあり。

このように順調に建設計画は進んでいるように読み取れる書類が提出されていました。
しかし翌年の昭和39年2月6日、「六会ードリームランド線」の免許を取り下げ、さらに大船線のルート変更も行われました。


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(モノレール大船線平面図1 国立公文書館蔵)


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(モノレール大船線平面図2 国立公文書館蔵)

こちらがその図面です。
大きな変更点として、全体的にルートが南に寄っていることが分かります。
大船駅は柏尾川の中央ではなく国鉄大船駅に沿った位置となっています。のちに分かりますが、河川の利用はうまくいかなかったようです。
さらに、経路が南にずれたことによって小雀駅はなくなり、小雀浄水場の北、現在の小雀公園の池になっているあたりを貫くルートとなっていて、交換設備についても記載がなくなってしまいました。
断面図には駅の記載があるので、神奈中バスの山谷下バス停の西あたりが小雀駅の計画位置だったのではないかと推測されます。道路や集落に近いルートではなく、農地だったであろう場所を通すように直しているようにも見えます。またウィトリッヒの森からドリームランドへ向かうルートは、六会線の用地を流用するような形となっているのが面白いですね。

さて、この計画が決まって昭和39年10月8日付で、この免許は日本ドリーム観光からドリーム交通への譲渡が申請されます。
このあとの免許関係の資料は、ドリーム交通の免許として記録され、国立公文書館で保存されています。
ルート変更から10ヶ月後、昭和39年12月24日付「ドリーム交通(株)申請の起業目論見書記載事項の変更について」で再度ルート見直しについて申請があり、現行のルートが完成します。
https://www.digital.archives.go.jp/item/483523

こちらがその図面です。

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(モノレール大船線平面図1 国立公文書館蔵)

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(モノレール大船線平面図2 国立公文書館蔵)

見たところ変わっているのは、国鉄大船駅への乗り入れ方法と、小雀、原宿交差点あたりのルートが南によっている点でしょうか。従来ルートがエンピツで加筆されていました。

目論見と異なるルートになった理由として3点が説明されています。
・国鉄大船駅乗り入れ断念:桜大線(=根岸線)工事用地の確保のため構内に線路を建設できなかった。さらに長尾台で当時計画されていた団地の建設予定地とモノレール経路が干渉するため、北側へ大きく進路を取ることも出来ず、三菱電機寮の脇をかすめる現行のモノレール線路が完成した。
・柏尾川利用問題:護岸工事を行うため支障となるモノレール線の設置が出来なかった。このため自動車学校脇に駅を設置することとした。
・原宿エリアでの迂回:聖母の園から宗教教育上できるだけ離れて通過することを求められたため、南に迂回するルートをとった。

つまり3か所というのは、ウィトリッヒの森以東の、ほぼ全線の路線計画について見直しを迫られた、ということを意味します。
昭和38年計画で「明るい見通しである」と記載していた問題が、1年経って解決せず決裂したことを示しているわけですが、なぜもっと早い段階でここまでクリティカルな計画変更が行われたのかは、この資料から読み取ることはできませんでした。

そして工事着手が昭和41年1月25日とあります。

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ドリーム交通が運輸省に宛てた工事着手届(国立公文書館蔵)

開業が昭和41年5月2日ですから、約3か月で全線開通という超突貫工事だったと読み取れます。
昭和38年計画では着工後14か月で完成とあるはずですから、到底当初の計画通りとは思えません。
そこで確認したのが、1965年11月6日に撮影されたドリームランド周辺の航空写真です。
工事着工を伝える2か月前の時点で、既にランド坂からウィトリッヒの森までの線路は出来上がっています。また、面谷戸や小雀などの区間においても、届け出る前からすでにモノレールの建設に着手しているのです。


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(KT657Y-C9-10 国土地理院提供)

工事認可が1月24日、工事着手が1月25日。そして25日深夜には、国道一号線にモノレール線路を架橋しています。
国道に影響を及ぼす工事は書類上のスケジュールとして未着手としておき、山林の中の工事については認可前に手を付けていたように読み取れます。
しかし、「昭和39年4月から建設に着手した」(長谷川弘和、鉄道ファン1966年7月号)という言及もあり、本当の工事着手時期はいつなのかわかりません。
モノレール開業に対する焦りがあったのか、当時はおおらかな時代だったのか、詳細な事情まで調べることはできませんでした。


そしてこの工事の末、
昭和41(1966)年5月2日に晴れてドリーム交通大船ードリームランド線は開業するのです。





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松尾國三から鉄道監督局民鉄部監理局長あてに送られた営業開始の電報
(国立公文書館蔵)

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運輸営業開始届(国立公文書館蔵)

ここには、営業開始が5月2日の17時15分と記されていて、夕方から営業開始されたという逸話が本当であったことを裏付けています。

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こちらが5月2日に発売された開通記念乗車券です。

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営業時間が短かったため、コレクター収蔵品でも初日の日付入り乗車券は珍しいのです。


さて、六会への免許を取り下げたドリーム交通でしたが、実際に建設した路線は、ドリームランド駅から深谷住宅の手前まで複線というものでした。
一度取り下げた延伸計画がまだくすぶっていたことを示しています。
この時点での行先は、モノレール開通時にドリーム交通が発行したパンフレットに記されています。

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(横浜ドリームランドモノレール開業 ドリーム交通発行 昭和40年?発行)

ここにはモノレールの路線図が書かれていますが、建設工事予定線として、
10番の長後駅を指しています。

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(横浜ドリームランドモノレール開業 ドリーム交通発行 発行年不詳)


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(横浜ドリームランドモノレール開業 ドリーム交通発行 発行年不詳)

大船線が開業する頃には、次のターゲットは長後駅だったことが分かります。
しかし、モノレール運休もあり、運輸省のドキュメントから長後を読み取ることはできませんでした。

ということで、モノレール運休後、復活に向けて様々な方法が模索される中で、多くのステークホルダによってあちこちへ延伸計画の夢が膨らむこととなったのではないかと考えられます。


さて、話が少しそれてしまいましたが、
路線建設までの足取りを整理したところで、ここまでの3ルートを整理してみましょう。
まずは、ルートを航空写真に載せてみましょう。

ドリモノ路線計画平面図s
1966年7月28日撮影の航空写真”MKT668X-C6-4”(国土地理院提供)をトリミング加工・加筆
青:昭和38年免許での計画ルート
緑:昭和39年の修正ルート
赤:昭和41年に建設された大船ードリームランド線

このように比較すると、モノレールの運行ルートは修正の旅に曲線が増えていることが分かります。
そして土地利用の困難な平地と、地形的制約の大きい山林部の切れ目を進むことで何とか開業にこぎつけたことが窺えます。


ここまで路線建設の経緯を調べているうちに、いくつか不思議な点が出てきます。
モノレール失敗の原因として、ルート変更による急勾配の増加が原因という説があります。
これはドリーム交通が東芝に対して送った内容証明郵便に対して「和解交渉の途中で路線変更をしたことが大いなる原因であると主張されましたが」と記載していることから、建前上であれ主張されたという事実はあるようです。ただし、勾配が原因だったのかどうかは、実態と異なっているのではないかと考えられます。
というのも、昭和38年計画の時点で、田谷から長尾台へ向かう区間に100‰の勾配があり、大船駅から大船観音側にある大きな崖を越えるために100パーミルの勾配を超えることがあらかじめ計画されていました。つまり、これらのルート変更によって突然勾配が急になったわけではないのです。

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モノレール用 ドリームー大船間路線予測縦断面図
(昭和38年日本ドリーム観光、国立公文書館蔵)

さらに、深谷からドリームランド坂にかけて、境川を渡るために谷になっているのですが、ここで100‰の勾配となっています。現在の道路を走行しても、原宿交差点方面へは急坂になっているため、モノレールも道路より高い場所を急勾配で登る必要があったことが分かります。
谷底に分岐が計画されていたので、ここで徐行を強いられると登坂は難しかったのではないかと考えられないこともないですが、基本的には長尾台の坂を除いてジェットコースターのように下って上る構造になっていたので、主電動機に負荷をかけると単純には言い難いと考えています。

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モノレール用 ドリームー大船間路線予測縦断面図
(昭和38年日本ドリーム観光、国立公文書館蔵)


そして昭和39年の修正案になると、100‰の勾配が増えます。
まず、ランド坂の勾配が77‰から100‰となっています。
ウィトリッヒの森を走行するルートは国道を跨ぐまでに高さを稼ぐためか、ルート変更後も100‰となっています。
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「大船~横浜ドリームランド間東芝モノレール新設工事路線断面図」
(制作年不詳・三井建設株式会社土木部 国立公文書館蔵)


さらに、小雀の手前、小雀公園から公文国際学園の辺りにも急勾配が設置されています。
ここは高い丘になっていて、さらに小雀浄水場の北側は高い土地となっています。
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「大船~横浜ドリームランド間東芝モノレール新設工事路線断面図」
(制作年不詳・三井建設株式会社土木部 国立公文書館蔵)


そして、長尾台からの山越え部分にも100パーミルが確認でき、さらに急勾配を避けるためか隧道で山を貫く構造となっています。
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「大船~横浜ドリームランド間東芝モノレール新設工事路線断面図」
(制作年不詳・三井建設株式会社土木部 国立公文書館蔵)


昭和40年の路線計画においても100‰区間は残りました。免許に図面は添付されていませんが、「横浜ドリームランドモノレール」(香川正明、「東芝レビュー」1966年10月号、東芝技術企画部発行)にある断面図によると、その区間は3箇所であることがわかります。

1.面谷戸から小雀にかけての上り勾配
2.小雀信号場から影取へ向かう下り勾配
3.ドリームランド坂の上り勾配

その上で技術上の問題のない旨を運輸省に説明していたことが免許から読み取れました。

果たして本当に勾配がモノレールの運命を決定したのか。
たしかに、湘南モノレールの湘南江ノ島駅にある運転シミュレータでは、70‰の勾配区間を運転体験できますが、この勾配は重力の作用が非常に大きく、コントロールは容易いものではありません。
しかし勾配の対処だけで車両重量が1.5倍にまで重くなるのか、という点には大きな疑問が残ります。

実はドリーム交通ではルートだけでなく、車両についても運輸省に提出された計画図がいくつかあり、
奈良ドリームランドの車両、そして東芝が試験的に作っていた車両など、さまざまな形態を有していることが分かりました。

次回は、東芝モノレールの車両史について整理していきたいと思います。