ドリモノガタリの2回目です。前回は横浜ドリームランド向けモノレール路線計画の紆余曲折について紹介しました。
路線免許の図面には、実現しなかったいくつかの車両図面があり、日本ドリーム観光や東芝が様々な展望を描いていたことが分かりました。ということで2回目は車両に焦点を当てて、東芝式モノレールの歴史を整理していましょう。
まず、「東芝式モノレール」と呼ばれる形式のモノレールは、東芝が製造した規格のモノレールに対してつけられた名称で、東芝式モノレールの中でも規格が統一されているわけではないことをご理解ください。
たとえば奈良ドリームランドと横浜ドリームランドのモノレールはそれぞれ軌道の太さが違うなど、同じメーカーの規格でも形が異なっているのです。
まずは奈良の車両です。東芝やモノレール協会の資料では「東芝モノレール1号機」と命名されています。

※「東芝モノレール」1964年10月 東京芝浦電気株式会社発行
奈良の車両は、東芝が初めて実用化したモノレール車両です。
東芝府中工場で製造され、奈良ドリームランド内の遊戯鉄道として活躍しました。
これはアメリカ・ディズニーランドにあった遊戯用アルウェーグ式モノレールを参考にして作られたと言われています。ディズニーは鉄道ファンでもあったので園内には遊戯用の他に交通用のモノレールも運行されているそうです。
アルウェーグ式モノレールが二軸連結車であったのに対し東芝式は連接方式を採用したのが構造上の大きな特徴ではないかと思います。さらに、この連接台車はやや特殊な構造をしていて、連接台車の両端から特殊な部品で台車との接続を行い、さらに車体間をロッドで制限することで、カーブの中央に台車が来るように制御しています。

※「東芝モノレール」(1964年10月 東京芝浦電気株式会社発行)より。
この手法により東芝式連接台車は接線方向に台車が向くといううたい文句となっていました。
さて、東芝モノレールの車両にはもう一つ、実際に製造された試作車があります。それが「東芝モノレールカー2号機」です。

※「東芝モノレール」1964年10月 東京芝浦電気株式会社発行
『企業と技術開発の総合誌「PIONEER」1964年4月号』(1964年4月、財団法人国民工業振興社発行)に掲載された論文『純国産技術によるモノレールシステム』 (東芝電鉄事業部川平吉郎)にはこの2号車の実車写真が掲載され、さらに鉄道ファン誌1967年1月号には府中工場に保管されていたこの車体の写真が掲載されています。
まだ大船線が計画段階だった頃に東芝府中工場で試作された車体のようで、今後の売り込みのために地方鉄道として必要な構造の車両を試作したのではないかと思われます。

まず車内に通路を設置して、ドアが各車に一つある仕組みになってます。
そして変わっているのは連接台車の構造です。
従来の鉄道車両に似たような枕梁というパーツを台車中心に配置し、ここに車体の芯皿が載ることで連接されます。そして2軸のタイヤを持つ台車は、2車体から枕梁に伸びるロッドのつり合いによってカーブの接線方向を向くよう操舵される構造となっています。
2号機の車体は1号機同様ステンレス構造をしています。
そして直通ブレーキと手ブレーキのみだったブレーキ装置にトリップコック式非常ブレーキが増設され、タイヤハウス内を車内から点検できる機構もこの時に考案されました。
1号機では先頭台車のタイヤハウス上に運転台を持ってきたことでデッドスペースを削減しましたが、2号機の場合はタイヤハウスの周りに座席を配置して最前面の運転台からのフロントガラスの景色が後方客室からも見えるように工夫されているようです。
1号機の設計をかなり無難なところに落とし込みつつ眺望を重視した窓ガラスなど観光路線としての特性も持たせているようです。
この3車両の進化を眺めると、大船線の10形は鋼製のため強度部材を増やす必要があり重量が増加した可能性も考えられるのかなと思います。
そして横浜ドリームランドで採用された10形。

東芝が初めて地方鉄道用に開発し製造したモノレール車両で、
今までの車とは一転してかなり現実的な鉄道車両の構造をしています。
この車は2編成を連結して運行できるように連結器を初めて装着した車両でもあります。
さらに車両性能に着目すると、もともと20kwしかなかった電動機出力を一気に100kwに強化しています。これは2号機にもなかったことで、確かに大船線用に主電動機を強化したことは事実であったようです。
(それが大船線の起伏に起因するのか、営業列車の最高速度に起因するのかは別問題)
さらに違いはブレーキと保安装置にもあります。
2号機まではシンプルな直通ブレーキを採用しています。これは路面電車などで使用されるブレーキ方式ですが、編成が長くなると応答にタイムラグが生じ、またブレーキが一系統で故障した際の予備手段がないということで営業列車で使用するには安全上不十分です。
6両編成で運転することを想定してか、10形では電磁弁で電気的に制御する電磁直通ブレーキを採用し、さらに勾配線区で安全にブレーキをかけられる電気制動、駐車ブレーキに相当するバネブレーキが追加されました。
一つ一つは重い部品ではないかもしれませんが、こうした装置の増加もモノレールの車重を大きくした背景の一つなのかもしれません。
とはいえ、一番大きな変化は車体そのもので、この計画は二転三転しています。
奈良ドリームランドの1号機から、ずっと東芝はステンレス製車体の図面を制作してきました。それが10形になっていきなり普通鋼製車体を採用したのです。ステンレスと比較して剛性が落ちるので補強が増えることで重量が増加します。
そして何より気になるのが、10形の車両図面を提出され認可したはずの運輸省の免許資料に10形の図面が遺されていない点。重量オーバーの車を認可したために証拠隠滅されてしまったのでしょうか。ただ裁判の書類だけが遺されていました。
それでは、10形が登場する前の免許申請時に添付された車両図面を見比べてみましょう。
・1963年計画図での車両計画図

「日本ドリーム観光株式会社の大船ドリームランド間及び六合ドリームランド間地方鉄道(跨座式)免許申請について」国立公文書館所蔵

図面は1963年7月14日作成。
運転席は外から乗るようになっていて、運転台はタイヤハウスの上に設置されています。
定員は、110+80+110= 300人。
イラストに起こしてみると、こんな感じ。

車両の前面デザインは、名鉄パノラマカーに酷似しています。
ドアは戸袋がないので観音開き戸になっているようです。
東芝が作成したものなのか、あるいは日本ドリーム観光の山が詰まった場面なのかは定かでありません。
・1964年のルート変更時の車両

「ドリーム交通(株)申請の起業目論見書記載事項の変更について」国立公文書館所蔵
1963年10月23日 東京芝浦電気府中工場作成とあります。

色が薄いので加工しました。
車体の雰囲気がだいぶ変わってきたと思います。
時期的にも2号機を作った時期と近いためか、全面形状など基本的な部分は東芝モノレールカー2号機を踏襲しつつ、タイヤハウスに運転台を設置して展望特急のスタイルをとっています。
Pioneer誌には車両の詳細なスペックまで記載されており、当時は時速100km/hでの運行も想定していたことを示していました。さらにこの図面を利用した国道1号線を横断するモノレールのスケッチが掲載されていることから、これが東芝の描く理想のモノレールの構造だったと言えるでしょう。
イラストに起こすとこんな感じ。

パノラマカー風味が少し抜けてオリジナリティが出てはいますが、株主の小田急でも1963年にNSEを導入していましたから負けない構造にする必要があったのかもしれません。
しかし、ここから先の車両のブラッシュアップの経緯は全くわかりません。
実際に登場したモノレールは全くの別物となってしまったのです。一体どのような紆余曲折があって10形が誕生することになったのか、60年前を知る人はもういないかもしれません。
さて、東芝はさらに電鉄向けの大型モノレールや、湘南モノレールの懸垂式モノレールにも参画を試みますが、いずれも実現しませんでした。
一部は書籍に掲載された計画図もあり、今回はこれらの車を資料からイラストで起こしてみました。
・通勤用モノレール

『モノレールと新交通システム』(佐藤信之、グランプリ出版、2004年12月16日初版)掲載の図面よりイラスト化しました。
原典はモノレール協会誌のようですが所蔵館が近くになく断念しました。
・東芝大型モノレール

※「東芝モノレール」(1964年5月 東京芝浦電気株式会社発行)より復元。
電鉄用大型モノレールとして開発していたモデル。
このモデルは奈良ドリームランド用モノレールが製造段階にあった1961年10月の東芝モノレールのパンフレットにも掲載されていて、かなり古くから営業資料に掲載されていました。
車内はボックスシートになっていて、扉は折戸になっています。
全体的な特徴として、東芝モノレールっておでこに標識灯か尾灯のようなものをつけたがるんですね。謎の設計思想を垣間見ました。
1961年と1964年では車両形式図こそ同じもののスペックが異なっています。
細かく調べていくと、1961年では480人を乗せて時速130km/hで走行できると説明していますが、400人を乗せて時速85km/hで走行するよう下方修正している点、さらにコンクリート軌道を大型化している点などにあります。
この軌道は幅800mm×高さ1500mmというもので、車両重量が48トンですから4両5台車8軸で軸重は6トン程度。大船ードリームランド間で採用された幅600mm×高さ1200mmと比べて大きなものになっています。大船線は6軸で30トンを支える設計で、設計上の軸重5トン。実際は46トンあったので7.5トンほどかかっていたことになります。
果たしてコンクリート軌道の剛性があれば防げたことなのでしょうか。
いずれも、技術資料が散逸した今では検証のしようがありません。
どこかで新たな車両図面が発掘されることに期待して、まずは手元の情報を整理したいと思います。
コメント
コメント一覧
ドリモノガタリ(2)、どうもありがとうございます。イラストかわいいですね。
[試作車] 展示されていたという試作車を初めて見ました。スッキリしていて良いデザインだと思います。
[1963年計画図] ドリーム観光の名前で描かれていますが、確かに先頭はパノラマカーにそっくりです。ディズニーランドをコピーしたあの人が「パノラマカーをコピーするんだ!」と言ったのかもしれません。車掌の乗務スペースが見当たりませんが、ワンマン運転は無理だと思います。
[1963年変更図] こちらは東芝府中工場の名前で描かれており、より現実的です。台車上の運転席は客室内になって、横に車掌用の椅子らしきものがあります。そして乗務員用扉が追加されましたが、これがないと信号場で通票交換ができないですね。
しかし10形は全然異なる普通の車両になりました。あの人「なんだこのつまらんデザインは!」東芝「もっとお金出してください」あの人「やだよ」東芝「じゃあこれでいくしかないです」なんてやりとりを想像してしまいました。それにしても実走した車両の図面が残っていないとは酷い話です。
コメントが長すぎる様です。一旦切ります。
[通勤用モノレール] これもなかなかセンスが良いと思います。さすがに通勤用は2扉ですね。
[大型モノレール] 収容人数が多いのに1扉で良いのかな。2地点間を往復して途中停車駅なし、終端駅での折り返し時間は長くとれる、という条件ならば良いのかもしれません。
ドリモノは
・運用開始後1年程度で車両故障(特にタイヤ関係)頻発→車両重量が怪しい→計量したら46t→定員削減して運用→軌道(橋脚?)にヘアークラックが見つかる→軌道と橋脚の疲労が判明→運行停止
という流れなので、仮に軌道側が十分な強度を持っていたとしても車両を定員削減状態で運用し続ける事になります。車両を再設計できるでしょうか?
もっとも、言われた設計重量に対してそんなオーバーマージンの軌道を作るメーカーはいないでしょう。軌道崩壊前に車両故障が頻発してくれたのは不幸中の幸いでした。
なるほど通票交換を考えるために乗務員室を下げる必要があったというのはよく考えればその通りですね。64年計画図でも、もともとはATCで走行する計画だったようなので乗務員室扉が直ちに必要だったかはわからないんですが、車掌のドア扱いには必要な装備になると思います。それまでの遊園地仕様では、ウエスタンリバー鉄道みたいに専門のスタッフがホームに立って開け閉めすればよかったですからね。
実車は本当に普通の電車になり完全に違う設計になってしまいました。値段だけで決まることなのか、やはり検討資料がないのが苦しいところです。