大正時代はじめの江ノ電の切符です。
今回の切符に書かれた社紋は、横濱電気という会社が発行したものであることを示しています。
大きさは縦30mm×横45mmというサイズで、東京電燈の切符と同じ。
東京電燈の切符よりも厚く硬めですが、まだ軟券と呼ぶレベルのペラペラした紙です。
裏を見ると、大正6年7月26日の文字。
駅は13駅書かれており、12区間でこのうち5区を利用する切符であることが分かります。
日露戦争の税収のために作られた通行税が残っています。
こちらも大正6年7月26日と読み取れますが、どうやらそうではないみたいです。
今回の切符に書かれた社紋は、横濱電気という会社が発行したものであることを示しています。
大きさは縦30mm×横45mmというサイズで、東京電燈の切符と同じ。
東京電燈の切符よりも厚く硬めですが、まだ軟券と呼ぶレベルのペラペラした紙です。
裏を見ると、大正6年7月26日の文字。
駅は13駅書かれており、12区間でこのうち5区を利用する切符であることが分かります。
日露戦争の税収のために作られた通行税が残っています。
こちらも大正6年7月26日と読み取れますが、どうやらそうではないみたいです。
先ほどの2枚の切符では、上段左「大境」「行合」と、上段右「小町」「鎌倉」が差分になっています。
つまり、この切符は発行年代が違うのです。具体的には、1915(大正4)年10月18日に駅名が変更になっているので、その前後の切符であると思われます。
(では、裏面の日付印は何を表す数字なのでしょうか…?)
こちらは年代不明ながら営業案内です。
(では、裏面の日付印は何を表す数字なのでしょうか…?)
こちらは年代不明ながら営業案内です。
これは小町駅が鎌倉駅に改称された1915年前後のものではないかと推測しています。
藤沢〜鵠沼と、鎌倉〜長谷の利用に限定され、
どうやら2区であればどこでも利用できるという形式ではなかった様子。
1919年ということですね。辻褄があいます。
しかし他のハンコからして、前の収集家の収集日が書かれているのでしょうか?
しかし他のハンコからして、前の収集家の収集日が書かれているのでしょうか?
この切符ではパンチのようなもので切符を切り取った形跡がありますが、
以前掲載した東京電燈の乗車券にはもうちょっと形のしっかりした改札鋏痕がありました。
両者の切符は、1915年ごろ、1925年ごろと10年程度の時間の空きがありますが、その間に改札鋏が進歩しているのか、あるいは有人駅での取り扱いがおおきくかわつしれません。
東京電燈時代の時点では鋏の形で乗車駅を特定できます。
しかしそれならば、そもそも券面に駅名を記載する必要がないはずです。
横浜電気の往復券の鋏の形からは、形で乗車駅を特定するというよりも乗車駅の場所にパンチを開ける方式がとられています。
当時の駅は40ぐらいありましたので、駅というよりもバス停みたいな停留場もあったはずなので、そのような駅から乗った場合は、車内で車掌が切っていたのでしょうか。
両者の切符は、1915年ごろ、1925年ごろと10年程度の時間の空きがありますが、その間に改札鋏が進歩しているのか、あるいは有人駅での取り扱いがおおきくかわつしれません。
そして東京電燈の乗車券はその過渡期にあったものと考えられます。
このあたり、近隣を走る鉄道が少ない(まだ小田急線も開通していない)ので、
このあたり、近隣を走る鉄道が少ない(まだ小田急線も開通していない)ので、
国鉄の切符事情に詳しい人とかに話を聞いてみたいところですね。
※過去に紹介した江ノ電の史料は 江ノ電史 タグで公開しているので、合わせてご覧ください。
※過去に紹介した江ノ電の史料は 江ノ電史 タグで公開しているので、合わせてご覧ください。
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